コミュネス

20 『死顔』について(死生観)

投稿日時 2017-10-29 15:58:06
執筆者 ukonsakon
 吉村昭は、藤沢周平と城山三郎とともに私の好きな現代作家です。いずれも1927(昭和2)年生まれというのは偶然ですが、共通するのは、激動の昭和を生き、藤沢と城山は軍国少年から平和主義者へ身をもって生と死を見つめ、吉村は自ら、過酷な病魔から生還した、命を見つめる人生であったこと、そういう苦難の時代を知らない、しかし貧窮の戦後を知る私が、彼らに共感し敬愛するところとなったということです。
 さて、その吉村の遺作となった短編『死顔』を読んで、私は幾つかの感慨を抱くことになりました。この作品は小説というより自伝的なエッセイふうの、淡々と綴られる文章でした。高齢の兄の病の床に寄り添いながらも深入りせず、後日訃報があっても「そうか、死んだか」とだけ言い、葬儀では死人の顔を見ようとはしない。彼自らの体験から、「(死者は)病み衰えていて、それを眼にすのは礼を失している」「死は安息の刻であり、それを少しも乱されたくはない(にちがいない)」という考えがあったからです。
 私が身近な死者を見た最初は、祖父が病院で死に、なぜか若い叔母と幼い私が祖父をリヤカー(だと思う)に乗せて自宅へ向かう時でした。そのとき覗いた祖父の顔が骸骨のように窪んでいたのを覚えています。
 今年の夏、親友の死の床で見た顔は、今まで慣れ親しんできた彼とは思えない異質なものでした。しかし、彼が死んだということは、彼が生きたということなのだと思い直しました。

 淡々と綴られた「死顔」の中で、唯一抒情的な描写がありました。父親が死んだときに「川があたかも激流のように、こまかい波を立てて、流れ下っているのを見た」というものです。人にはそれぞれの激流があっても、その果てにあるのが、安らかな穏やかな川面であるような気がするのです。(了)


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