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投稿者 掲載内容
掲載日時: 2009/08/24 10:26  
ベテラン
 「*」のカテゴリ
ときどき話題になっている状況にも関連するのですが、投稿するときによく迷うことがあります。それは、投稿するカテゴリを選ぶときに「*」の付いているものを選んで、コメントを受け付けないようにしておいたほうが他の参加者の負担を減らすのではないかということです。もちろん、意図的にコメントを受け付けないようにしたい場合もありますが、そうでない場合でも「*」を選んでおけば、読む人は「ああ、コメントしなくていいんだ」とほっとするのではないかと思うのです。見方を変えれば、「*」なしのカテゴリを選ぶと、なんだか読む人にコメントを強要しているような気持ちにさえなってきます。もちろん、こんな風に感じるのは私だけなのかもしれませんが、折に触れてどうしたもんかなあ、と迷うことがあるのです。ご助言をいただければ幸いです。
掲載日時: 2009/08/24 12:01  
プレミアム+
 Re: 「*」のカテゴリ
こんにちは。この答えはとても簡単ですね。
まず、メルパはそもそもコミュニケーションの場であるわけですから、コメマークの付いた「コメント不要のカテゴリー」というものが存在していなかったと記憶しております。
引用:
読む人は「ああ、コメントしなくていいんだ」とほっとする

こういうお考えのユーザー、つまり傍観者は、いろいろな人々との意見感想やりとりや関わりを楽しむ場所、つまり「コミュニケーション」を主な目的としているサイトには、傍観的な目的の参加者はまるで好ましくない人と言えましょう。

そうした参加者は、いわば、ご近所さんや友人知人がたのしくわいわい集まる「レセプション」の会場で、誰にも気づかれないように、ひっそりコソコソと隠れてガラス窓にしがみついて、中の様子をジーっと傍観している人、というような情景にあたかもそっくりですね。(それを世間では「ノゾキ魔」と呼びます)

極端な話しですが「コメントや評価は不要ですのでよろしくお願いします」、と書かれた記事であったとしても

「今回はコメントや評価は要らないのですね、わかりました、これからも頑張ってください!」

というコメントが付くくらいのことが理想的と言うのは、言うまでも無いかと思います。=ここはコミュニティの場ですからね。

コメマークのブログや日記は、負の名残りでしょう。コメントは要らないので、システム側でコメントを入れられないようにして欲しいという過去のユーザーサポートへの投稿があったようです。(今は解決済みでその投稿自体は消えていますが)

思うのですが、コメント要らない、干渉されたくない、ひっそり個人の私物化にしたい、というお考えの持ち主であれば、自分でプログラムして「自分の個人ブログを作る」か、どこかよその「個人向けブログサイト」に申込んだらよいことでしょう。

そうすれば、
誰にも干渉されずに、コメントの有無も自由に私物化で設定できる

でも、誰も読みもしませんし、コメントも添えたいとも思わない。添えなければならない理由もなければ、添えたら失礼とも思われるでしょう。=私物化ブログ/他サイトの場合

こうした個人向け私物化ブログと、メルパの共同ブログというサービスは、まったく180度性格が異ります。つまり記事をシェアーすることで友達や仲間を増やし、あいさつがわりにコメントできる自由なコミュニティが広がります。

もちろん匿名ゲストの「無責任」なコメントは「ゴミ以下」ですから、ゲスト投稿は拒否されるのが理想ですね。バイアグラやらエロサイトのリンクやら、そして自己陶酔しているドコの誰だかわからん否定破壊のコメントなどもらったところで、何の投稿の励みにはならないですから。(むしろマイナス/悪害)

共同ブログに記事を投稿して、コメントを綴りあい、時には共感を、そして時には反対論もぶつかりあい、そうした人間らしい接触を通じて、豊かな人間学習ができるというものでしょう。

しかし社会というマンモス時代はますます逆に進みつつあるのも否めません。ニーズの多様化に合理化‥‥‥ヒトという存在原理が薄れていく時代。こころ無い、邪悪で稀薄な関係がエスカレートして、ささいなことで口論、暴力、殺人、詐欺、泥棒、中傷などが加速している時代です。それはまるで、レストランで言うところの「注文ベル‥‥‥」 まるであたかも実験用のサルがエサをくれ、という時にベルを押す、というアレにしか見えない‥‥‥(まあ、料理は「人間のエサ」というブラックユーモアがあるのかも知れませんが‥‥‥)

あれでは合理化は進んでも、人と人のコミュニケーションはますます遠くなり、昔のように、グラスを手前に引き寄せるしぐさで、ササっとウエイターが来てくれる、来てくれたらオーダーを対話する、というような人間らしいマナーの触れ合いは薄れていくことでしょう。

「いらっしゃいませ。ようこそ」の対話文化から‥‥
 ↓↓↓↓
「注文はベル」チーン!ピンポーン!
エサくれ〜〜〜、私たちは動物園のサルだよ〜〜、エサクレ〜〜

ワンボタンで客の多様化に合理化することは、人との基本的な接点が激減して、わずかなことであり得ないほどの理解のズレが生じ、トラブルになりやすい=(コメマークのカテゴリーなどの合理化も負の遺産)

当然ながら、もうこの時点で、感覚がズレちゃってますから、対話がスムーズに進むハズがありませんしね。売名広告によって名前だけ知れている「無価値」な大手サイトでよく見かけるように、こうした合理化システムを極めたサイトでは、確かに「見かけユーザー数」は多いのですが、ほぼ全てがクレーマーしか存在しませんし、通販サイトであれば、不要な合理化で、値段を下げることばかり考えても、1日の総合来客数が「たったベルひとつで2倍に伸びるワケがない」でしょう。現実的にレストランでは、むしろ、あの「ベル」のおかげで、常連さんはクレーマーになり、サービスの対話のチャンスは減り、エラそうな要らぬ品評客ばかり増えるだけで、売上げ半減、サービス半減、顧客は離れて経済・経営が成り立たないのが公式です。

あとは議員と癒着して、テレビで「地元の新鮮材料を使ってる有名レストランです」というようなデッチアゲの特番でもNHKや有名テレビ局に取材申請して報道番組を組んでもらわないと、レストラン経営が成り立たない時代になりましたね。当然ながら、これでは一部の搾取者に対する利権構造が助長され、中小企業は育たなくなります。そして、数年後には「地方都市」が機能不全になり、近隣合併しか手は無くなるでしょう。豊かな地方色も、すべて利権だらけの社会が加速します。(現在がまさにソレですが)

→ 合理化のツケ/代償は大きい

長くなりましたが、基本的にすべてコメントできて当然ですし、コメント不要と書かれていても『「今回コメントはパスしますね」というコメントが書かれる』くらいが理想的なコミュニケーションであることは言うまでもないでしょう。

そうしたことを「おせっかい」と感じるなら、コミュニティを利用する資格はないユーザーですから、どこかの個人ブログ提供サービスに申込んだらよいだけのことでしょう。そして広告業者の「都合のよいカネづるのカモ」になり、すべて万事解決というわけです。(無料ブログサービスなど/広告ベタベタ/個人情報ボロボロ)

長年のメルパへの参加年月、そしてヘルプQ&Aを読むと、不要な合理化や、不要な機能などを、なるべく排除したシンプルさをテーマに、メルパのコミュニケーション作りの基礎は、そうした「人間らしさ」「対人関係」が常に念頭におかれていると感じてやみません。

────────────────────────────
PS:現在は非コメントカテゴリーがありますから、それをどのように活用するかについては、ご自身の判断になるかと思われます。ただ、昔に覚えがありますが、わざと「コメントを入れたくても入れられない」という「非コメントカテゴリー機能」を悪用して、ただやみくもに感情的な文章だけ綴り非社会的なテロにも近いようなブログであったり、またあるときは「他の通販サイトのリンクの目的」のために、非コメントモードで「私物化」していた人もいたようです。

それらの投稿は、私から事務局さんへ通報しましたところ、すみやかに削除されブラックリストに登録された様子で除名されていたので、安心して共同ブログが使えるようになりましたが、非コメントだから「対話を持たないマナー違反」を悪用する他リンクによる迷惑利用は激増する、ということは明らかな事実のようです。

そういう人はコミュニケーションの場を利用する資格はありませんので、どこか個人向けブログサービスにでも申込んだらいいと思います。(それなら、誰にもおせっかいを差されることもなく、私物化して使えますしね。もちろん、誰もそんなブログは読みませんケドね。)

また、そうした「リンク目的」や「他ブログからの全コピー記事」などが、誰の目にも無差別に触れられるような状態は、たいへん迷惑であり、望ましくない状態でしょう。現在のメルパでは、友達関係になっていない「他人の記事」を一発でリスト表示されるという迷惑な仕様は改善されていますので、とても安心できますね。

ブロクも日記も、RSSからたぐれば全リストは表示できますが、日記コーナーに、他サイトのブログの丸ごとコピーしているユーザーも拝見します。これはヒドイ! 手抜き千万の超迷惑なマナーの無い利用の典型的なケースでしょう。しかし、ブログではなく、個人の日記ダイアリーという点からは、何を書こうと、どのように使おうと、それは日記である以上は「個人の自由」でしょう。

しかし、これも無差別に閲覧できる状態を巧みに利用した悪質手段であることは言うまでもないでしょう。それは迷惑行為に他なりませんから、現在のように、日記でもブログでも「友達登録しないと読めない」「表示されない」という仕様は、とても好感が持てますね。

毎日、他のブログサイトの時間日記みたいなものが、丸ごとコピーペーストしただけの記事で埋め尽くされ、連日ずら〜〜〜〜〜〜っと同じユーザーの時計の通販サイトのリンク誘導のための日記しか目に映らないとすれば、それは気持ち悪いを超えて、嫌気すら感じますしね。真面目にリンクをたどってみれば、ヤフーオークションの時計の転売サイトであったり、時計の通販サイトやメルマガ購読ページに終着する‥‥‥すべて他のブログサイトのコピー記事だけで、これは明らかな「誘導リンク」のための迷惑利用ですね。

でも、それが公のブログではなく、個人の日記ダイアリーである以上は、個人の自由でしょうから、明らかに誘導リンク目的と言えども、通報して記事を削除するよう事務局さんへ要望するのは、ちょっとやりすぎ、と言えるでしょう。(読みたくない日記は、友達にならない限り、読者に見えなければいいだけですからね。)

メルパでいろいろなブログや日記を読みたければ、RSSや新着リストから探して、友達登録して読むことで、不要な記事を目にする迷惑から開放され、本当に読みたい友達の記事を楽しめますね。

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掲載日時: 2009/08/24 22:25  
ベテラン
 Re: 「*」のカテゴリ
さすが、ほのかさん。ゲリラ豪雨のようにほとばしる文章で、心中を推し量ってあまりあるものがありますが、 キーワードは「コミュニケーション」ということだと理解しました。

「コミュニケーション」は、いうまでもなく communication のカタカナ言葉ですが、英英辞書の語源には、
引用:
from Latin communicatio(n-), from the verb communicare ‘to share’ (see communicate ).

とあり、「シェアリング」にも通じる意味をもつことも分かりました。

また、communication をそのまんま「通信」と訳してしまうと、狭義の技術用語を連想するためにカタカナ言葉にしたのだと思われます。

しかし、以前にも書いたかもしれませんが、江戸時代まで「朝鮮通信使」という使節団がありました。日本と交流を深めるために定期的に朝鮮半島から使節団が対馬経由で江戸城までやってきたのです。こんな昔にも「通信」という言葉が使われており、この場合は、「信(よしみ)を通わす」という意味です。「信(よしみ)」は「親しい交わり」のことですね。

僕らが子供の頃には、今様の「コミュニケーション」という言葉は一般的ではありませんでしたから、対人関係の場合などに使われているのは30〜40年ぐらいの歴史になるのでしょうか。

カタカナ言葉になると、なんだかすばらしく新しいもののように感じる、または感じさせようというのは、よくある傾向ですが、そんなことはない、というものの代表例のようなのが「コミュニケーション」です。

江戸時代までの「通信」を引き合いに出すまでもなく、子供の頃の記憶をたどれば、近所づきあい、八百屋や魚屋での客とのやりとり、先生と生徒の関係、等々、数え上げたらきりがないほど、「コミュニケーション」であふれておりました。

もっとも、こういうのがお節介すぎて困るという向きもありましょうが、そのおかげで犯罪なんかも少なかったんではないでしょうか。

おそらく転機となる象徴がテレビじゃないかと想像するんですね。当時でもテレビが「一億総白痴」をもたらすなんて議論も一部で盛んだったことがありましたし。

テレビをはじめとする電気・電子技術の発展が、どうも娯楽や人間関係を内向きに個人的にしていったような気がしてなりません。映画館では他人の迷惑にならないように観賞しようとしますが、家でテレビを見るときにはどんな格好で見たってかまわないわけです。

テレビなどは小さな例に過ぎないかもしれませんが、高度成長期にはみんなが力を合わせて戦後の経済復興に貢献したのでしょう。戦時中の団結心とは逆の方向の団結心が芽生えたのかもしれません。

しかし、それが過ぎると、例の喉元過ぎればで、「エコノミックアニマル」といわれるほど金銭的に豊かになり、みんなで力を合わせてがんばってきたことなど忘れてしまって、ひたすら個人の欲望追求に邁進します。こういうことから「ルール無き民主主義」とも言われることがあります。

欲望のレベルは様々ですが、とにかく目先のことばかりに汲々とする結果、個人レベルでも特に理由があるわけではないがなんとなく忙しい、時間に余裕がないということになってくる。しかも、「忙しい」というキーワードが「八面六臂の活躍をしているできるものの称号」のように使われる場合も多くなります。このあたりから、忙しいものは勝ち組、閑なものは負け組、みたいな分類が始まったんではないでしょうかね。

さて、忙しいとどうなるかというと、ちょっとお隣を訪問するにも電話を掛けてご都合を伺わないと失礼ということになります。またまた例が突飛ですが、落語では長屋の店子が大家さんを訪ねるときに前もっとご都合を伺うなんてことはしませんね。もう、今では失礼だろうがなんだろうが行きたいときに行っちゃう。向こうも向こうで、「よく来たね、はいんねえ」とくる。これは昔話だけでなく、今でも昔から農家をやっているような地元の人と仲良くなると、断りもなく玄関を開けて入ってくるので、慣れないととまどうくらいです。

少々脱線気味ですが、個人の欲望や効率を優先していくと、便利が一番、手間暇かかるのは後回しというのが無言のスローガンになります。自分の欲望を実現するためには直線的に必要と思われる行動を取りますが、自分の欲望とはあまり関係のないものに対して広角的に気を使おうなんていう了見など愚の骨頂ということになってきます。もう、ほんとうに、こういうのをサモシイというのでしょう。いやですねえ。

「コミュニケーション」をとりたがらない、とりたくないという傾向は、個人的欲望の過激的な追求の副産物であると同時に、血の通わない、無機質で、冷たいものを増殖させます。小泉内閣の時から「自己責任」という言葉がよく使われるようになりました。当時だったでしょうか。イラクで数名の日本人が人質になった当初、「捕まったやつが悪い、自己責任だ」という論調が主流でした。しかし、すぐに、この論調に対して批判が出ました。瀬戸内寂聴さんも、「いつから日本人はこんなに情けなくなったのだ」ととても立腹されていたようです。

効率優先、無関心、無関与、やらずぶったくりなどは、大多数が作り上げる時代の特徴であって、なかなか簡単に変わるものではないのかもしれません。しかし、「昔はよかった」という懐古的なものではなく、「いいものはどんなときにも変わらない」というのが、「コミュニケーション」の真骨頂です。こういうものを一番に大事なものとしてはぐくんでいこうとするメルパのような環境は希少価値です。多くの支店を作って拡大して連鎖倒産するのではなく、こぢんまりとしても由緒ある老舗であり続けるよう、参加者の一人としてわずかでも貢献させていただければこの上ない喜びです。
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